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大衆演劇のお芝居ってどんなの?(独断・私見の)大衆演劇観劇ガイド

『瞼に母』都若丸劇団@博多新劇座 11月6日昼の部

このお芝居、三回目だった。いつもおなかを抱えて笑ってしまう。絶妙の間の取り方。アドリブ部分がその都度少しづつ変わるので、飽きない。以下が大まかな筋。

おこも稼業の五郎やん(座長)が、ちょっとした行き違いから大店の旦那(キャプテン)に昔捨ててしまった息子、政吉と人違いをされ、その店に連れてこられる。そこで跡取りとして「教育」を受ける羽目になる。以前にみたときも抱腹絶倒だった箇所。お目付役の女中(ひかる)に算術の特訓を受ける。「雀が三羽屋根に止まっていました。そのうち二羽飛び立ちました。さて、何羽残っているでしょう」と聞かれて、「一羽」と答える座長。「賢い!」とひかるさん。「ええ加減にせぇ。三つや四つの子じゃあるまいし、もう三十越えてんねんぞ」と座長。延々と続くこの雀の算術。辟易する五郎やん。

店に用でやってきた政吉(剛)に再会。政吉は五郎やんとは分からない。「包装紙が変わっているけど、わしやがな」と座長。政吉の半纏に大工と書いてあるのをみて、「ダイエー」と読む座長。中でも一番おかしかったのは、いかにこの新しい家で「いじめ」を受けているか、五郎やんが政吉に切々と(?)訴えるところ。

一つ目は、湯呑に蓋がしてあって、その蓋を取ってはいけないと思い蓋と湯呑の隙間から茶を飲むのがどれ程熱いかという訴え。二つ目は茶碗の蓋を取ってもよいと分かって、飲もうとしたら、(茶碗蒸しだったので)ぎんなん、えびやらがどっと落ちてきたという訴え。生け造りなるものが出てきたが、(魚が皿に載せられている様の実演付きで)魚が目をむいているので、身が食べられない。瞼を閉じようとしても瞼がない。どれだけ恐ろしかったかという話。次の訴えはトイレに蓋がしてある件。「金持ちはよっぽど蓋が好きなんやな」と五郎やん。蓋の上にして用を足したら、怒られた。それではと蓋をとってみたら大きな穴が開いていたので、入ってみた等々。もっとも傑作は例の算術の特訓で、「雀がぜんぜん減らん」という件。おかしいやら、なにやらかなしいやら。

再会した実の親子の政吉と店の旦那。政吉は意地を張って父とは呼ばない。そこで五郎やんの出番。どれだけ実の親をもつのがありがたいかという説教を政吉に垂れる。ここでは「結婚を今までしなかった件」についての座長の自虐ネタならぬ楽屋落ちがふんだんにあり(これは昼、夜の部で大分変えられていました)、どう反応してよいのやら、ちょっと困ってしまった。ただ、お客さんは大笑いで大喜び。若丸本領発揮!

この説教の場面のあと政吉が父と和解する場面が続くのだが、そこで思い入れたっぷりの尺八の曲がかかる。かなり長い曲が終わり、びくっとして「眠とった」と座長。このセンチな場面の外し方、まさに若丸。

最後、例の雀の算術、「雀が三羽向かいの屋根にとまっていました二羽飛び立ちました」を復誦しながら花道を入る座長。奥に入ってから「さて残りは何羽でしょう」。この場面もおかしさ半分、かなしさ半分。もう無敵!毎日とはいわなくとも毎月一度は観ていたいお芝居。

 長谷川伸の『瞼の母』とは何の関係もないお芝居。それでいて、親子の情が通奏低音になっているのは共通している。この辺りのパロディ化が実にうまい。唸らせられます。