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大衆演劇のお芝居ってどんなの?(独断・私見の)大衆演劇観劇ガイド

『まぼろし峠』三河家劇団 劇団花吹雪春之丞座長、真之輔さんゲスト@鈴なり座12 月18日昼の部

お芝居は『まぼろし峠』。

置屋「田琴」の娘お千代(諒さん)は大店油屋の若旦那(華太郎さん)に見初められるが、彼女には言い交わした清さん(真之輔さん)という男がいた。油屋から若旦那と番頭が来て、支度金として5百両を出すという。置屋の女将でもある千代の母親(甘田さん)は大喜び。しかし千代は断る。

そこへ清さんがやってくる。お千代を貰い受けるのに必要だと置屋の女将にいわれてた金子50両を、自分の店の主人に頼んで用意してきていた。それを女将に差し出すが、彼女は隙をねらってそれを隠してしまい、そんな金は受けとていないと言い張る。清さんはてっきり千代が母と結託し、自分を罠にかけたと思い、怒って去って行く。

残された母親は千代にむかって彼女の出生の秘密を明かす。千代は彼女の子供ではなく、伊達政宗公の墓の前に捨ててあったのを彼女と夫が拾って、今まで育て上げたのだという。そう聞けば、義理ある母親に反対することができなくなるお千代。泣く泣く承知するが、母親がいそいそと油屋に出かけた後、清さんへ申し開きの手紙をしたためて、自害しようとする。

そこへ清さんが出刃をもって殴りこんでくる。それを、家の中より弁天小僧もどきの女装をした一人の男が飛び出してきて止める。彼はお千代に向かって自分は「泥棒」だといった上で、清さんに次第を説明する。そして千代には「隣の部屋で一部始終は聞いていた。お前の父親は炭焼きをして健在だ」といった上で、彼らに金を与え父親を訪ねて行くようにいう。

丁度そこへ田琴の女将が帰ってくるが、泥棒が行灯の灯を消して二人を逃がす。しかし、二人が逃げた後泥棒は誤って女将を手にかけてしまう。

残されたその男は名前を吉五郎(春之丞さん)と名乗り、一人述懐する。20年前に父母が捨て子をするのをみていたのだが、その子こそが千代だった。捨てた場所、名前が一致した。彼自身はぐれて家を飛び出し、その後母親は病死、後に炭焼きの父と妹が残されているのだという。

清さん、千代の二人は炭焼きをしている父親、十作(桃太郎さん)のもとへたどり着くが、父親は家に入れることも親子の名乗りもしないという。というのもその少し前に、江戸から十手持ちがやってきて、その二人に置屋の女将殺しの嫌疑がかかっているというのだ。二人は驚くが、父親に諭され番所まで出向く。泣きながら見送る妹おのぶ(小桃さん)。

そこへ吉五郎が家の奥から出てきて、父親に今までの不孝を詫びる。父親から、千代二人が訪ねてきたものの追い返した、それというのも千代に母殺しの嫌疑がかかっているためだと聞かされ、驚く吉五郎。自分がその犯人だと告白したろころへ江戸からの十手持ちがやって来て、彼をお縄にする。千代と清さんも一緒にやって来ていた。

吉五郎は刑を務め上げたら帰ってくるとみんなに約束して、十手持ちに引いてゆかれる。 

 大衆演劇のお芝居のテーマ、「義理と人情との板ばさみ」がきれいに整理されていて、抵抗なく観れました。このテーマのお芝居は現代という時代にやると、ずれが生じることがあります。だからこそやることに意味があるのでしょうが。でもこのお芝居、『まぼろし峠』は、その構成が緊密で、ずれを感じることなく見れました。リアリズムに則り演じられているためだったのでしょう。そこに桃太郎さんの工夫を感じました。

古くからある型にリアリズムを組み込んだというのがいくつかの場面にみられました。例えば、以下の場面です。

1.清さんが怒って置屋を飛び出すシーン。彼は「弱い男には弱い男の意地がある」といって見得をきります。
2.置屋の女将がいそいそと油屋へ出かけてゆくシーン。彼女は五百両と五十両が手に入ったと悦んで、「かぼちゃかえせばまた出るかぼちゃ」といって、笑います。

こういったクリシェ的台詞は昔からの「型」であると同時に、場の状況、そしてその人物像を雄弁に伝えるものとして機能しています。古い台詞からリアルに場、人物が立ち上がってきます。こういうのはもちろん歌舞伎にあるものです。約束事がきちんと機能すればそのフルさが逆に効果的に機能するわけです。

以前観た大衆演劇のお芝居で、「義理人情の板ばさみ」というテーマが一人歩きしていると感じたことがありました。それはここのところが巧くできていなかったためだと思います。

昨日、このテーマの芝居で初めて泣くという経験をしました。訪ねてきた千代に近づこうとする千代、それを止めるおのぶに近づこうとする千代、それをとめる清さんの四人ががっつりと組んだ場面です。桃太郎さんは言うに及ばず、諒さん、真之輔さんの名演技が光る熱演でした。

吉五郎役の春之丞さんにも見せ場がいくつかありました。千代にきりかかった清さんを止めて見得をきる弁天小僧もどきのシーン。自分が千代の兄だと客に向かって述懐するシーン。最後に縄を打たれて引かれてゆくシーン。それぞれにながーい台詞があるのですが、型にはまりつつ、リアルさがしっかりと演出されていました。

それにしても、なぜ「まぼろし」なんでしょうか。