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大衆演劇のお芝居ってどんなの?(独断・私見の)大衆演劇観劇ガイド

『泥棒道中』都若丸劇団千秋楽公演@新開地劇場 4月29日

お芝居は『泥棒道中』だった。去年も観ているし、超満員だろうと予想してはいたけれど出かけた。案の定、開演40分前にすでに長蛇の列、二階席になった。とはいうものの、歌舞伎の劇場に比べたら、二階席といえども舞台が近い。オペラグラスも必要ない。

楽しかった!大筋は以前観たとおりだったが、細部、特にアドリブ部分が若丸さんの当意即妙さで、替えられていた。例えば、宿で名前を聴かれた際の偽の名前は亀四郎(座長)が「ごるば ちょふ」、亀四郎に付けねらわれる越後屋の手代(剛)が「パク(某)」になっていた。あまりの突飛さに、宿の女将(ひかる)が、「日の本の方ですか」と訊く。「日本の方ですか」となっていなかったので、感心した。時代考証、きちんとされているんですね。「大衆演劇だから、この程度でいいのでは」といった「妥協」をしないところ、さすが都若丸劇団。

コメディをやらせたら、若丸さんの右に出る人はいない。それは天性のものだろう。その絶妙の間の取り方、天才的!まったく無理がない。今でもそのひとつひとつが目に浮かび、思わず笑ってしまう。単に「オカシイ」のではない。それだと「吉本新喜劇」になってしまう(「吉本」を貶めている訳ではありません。念のため)。ばかばかしさの中に、なにがしかのペーソスが含まれている。それが視る者の心に響くのだ。『瞼に母』もそうだった。『泥棒道中』は、悪者の亀四郎のその「ワル」ぶりの中に、単に悪いだけではない「哀しみ」の要素が加わることで、芝居自体が深くなっているのだと思う。それを演技として表現できる役者は、そんじょそこらにはいない。お決まりの座長と剛さんによる「ドタバタ舞踊競演」も、それがあるから単に面白いだけ、ばかばかしい笑いだけではなくなるのだろう。

加えてショーの見事さ。もう絶句!大衆演劇といわず、いままで観てきた宝塚、新感線、ミュージカルのすべてを超えていた。脱帽。構成、照明といった舞台構成要素のすべてが、エンターテインメントの最高峰を志向したものになっていた。それに匹敵する座長を初めとする座員たちの舞踊の確かさ、美しさ。それらすべてが一つになって、これほどの舞台を創りだすことが可能だったのだ

一番感動した舞踊は座長渾身の「生きとし生ける物へ」。赤と黒の着物で登場した座長。上からは一条のスポットライト。上に向かって手を挙げた彼。一息あって踊りだすと、そこに別次元の空間が現出。彼の身体一点にすべてが収斂し、円錐状の透明なカプセルが顕れる。その緊密な空間の中心に居るのは、ある意思を全身全霊で表現しようとする座長、若丸。その密度が高まれば高まるほど、彼の孤独がくっきりと浮かび上がる。思わず、呟いた。「あぁ、この人はひとりなんだ、孤独なんだ」と。